牧野信一と「文科」 柳沢 孝子
 
 「文科」は、すがすがしい雑誌である。正方形に近い判型もいい。青山二郎による装丁も、あっさりしていていい。執筆陣を見ても、およそ商売っ気を感じさせない。さらには発刊の辞もなければ編集後記もない。次号の予告もない。奥付にも、編集者として春陽堂の難波卓爾の名があるのみで、実際の編集主幹であった牧野信一の名前も記されていない。

 執筆陣がどう選ばれたのか、おそらく牧野の趣味が第一、それに難波卓爾の関係者が加わったものと思われる。当時としては、芸術派(新興芸術派とはやや一線を画するものだが)の部類に属する若手たちである。この執筆陣の背景の一つには、雑誌「作品」がある。「作品」は、昭和五年に小野松二、堀辰雄、井伏鱒二、永井龍雄、小林秀雄らによって創刊された雑誌であり、後には雑誌「文学界」とも重なりながら、やがて昭和文学を支えて行くことになる人々の結集の場であった。これらの若い仲間との交流、と言っても牧野の場合、ほとんど酒盛りばかりだったらしいけれど、この熱気が、牧野文学の最盛期を形成する原動力ともなり、「文科」の母体ともなったのだろう。

 牧野は、「文科」全四輯にわたって彼の代表作「心象風景」を連載し、小林秀雄との共訳でE・ポオ「ユレカ」を載せた。「ユレカ」は小林が仏訳から、牧野が英語から訳したということだが、「文科」用の原稿は、牧野信一の文字で書かれている。牧野もかなりがんばったのである。ただしこれは二回しか続かなかった。牧野によれば、自分がどこかの酒場に原稿を置き忘れたせいだというのだが、ホントかね。

 「文科」が四輯までで終わった原因は解らない。実は第五輯のための「心象風景」のゲラが残っているので、牧野に雑誌継続の意志はあったのだろうが、幻のごとくに始まり、幻のごとくに消えるのも、このすがすがしい雑誌にはふさわしいかもしれない


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