だるま・けんやき・むかでだこ

 小田原ではむかしは五月の端午の節句にたこを揚げた。
そのころ東京ではたこ揚げは正月のものであったらしく、『幼年の友』、『幼年クラブ』、 『少年クラブ』その他どの雑誌をみても、みんな新年号にたこ揚げの口絵がのっていた。小田原ではどうしてお正月に揚げないのだろうと、子供心に不思議に感じたものであった。
 ちょっとこのことを調べてみると、たこの歴史は非常に古い。中国では、漢の高祖の時韓信が敵状偵察用に使ったのがその起源だといわれているし、日本では承平年中(九三一-九三七)に作られた『和名抄』という本の中に出てくる。たこを揚げる季節は何も正月にかぎったことはなく、風さえ吹いてくればいつでもいいわけで、五、六月、七、八月に揚げる地方もある。
 子供のおもちゃとしてだけでなく、古くは軍陣用にも使われたというのだから、尚武の精神を養う五月の節句に揚げる方がむしろふさわしいといってよいのかも知れない。
 わたしなどは屋根の上で揚げたり、近所の空き地で揚げたりしていたが、たまに海へ行くと、これまた、まことに壮観であった。
 やっこだこ、とんびだこ、角だこ、だるまだこ、けんやき、むかでなど――大分後になって飛行機だこも出てきたが――いろんなたこが、やや風波ぎみの海をうしろにして、さつき晴れの空に高く低く、遠く近く上がっている。それを見て、今度海へくる時にはたこを持ってこようと思ったり、海の近くの子はいいなとうらやましがったものであった。
西沢笛畝著『日本玩具事典』の中の「小田原だるまだこ」には
 小田原には珍しいたこの種類がある。長崎だこのヒントをうけて作った「けんやき」と呼ぶひし形の両側を切り落としたものや「むかでだこ」のような奇抜なものもある。「だるま」だけはその形を巧みに利用してあるところに一つの特色がある。
 と書いてある。
小田原のだけのたこしか知らないわたしたちにはわからないが、全国のたこを研究している著者が珍しいといっているのだから、やはり郷土玩具として独特のものであったといってよいのであろう。
 けんやきの糸のつりはまんなかに二本しかないので、つりあいをとるのがなかなかむずかしい。両側にふさをつけてつりあいを取るのだが、それがとても微妙で、どうやら揚がったと思っているうちに、ちょっとした加減で横ざまにサーっと落っこちる。そのたびにふさをつけて調子をとる。それだけにうまく揚がった時のうれしさは格別であった。領袖を振っているみたいで、ほんとにひょうきんなたこであった。
 そこへ行くと角だこやだるまだこは高い空にジーッと安定し、ブーンとうなりを響かせて――動いたとしてもおおようで、さすがに貫禄があった。糸の切りっこももちろんやった。わたしはやったことがないのでどうやって糸を強くし、相手の糸を切るのにどんな仕かけをしたのか知らない。
 長崎ではビードロ引きといってガラスの粉を糸に引いて切れないようにした。江戸では木をけずり、刃物を植えた雁木をつけて、それで相手の糸を切るなどいろいろ工夫をしたといわれているが、小田原のも多分そんなところだったのであろう。
 むかでは竹で円い輪をいくつも作り、それをつなぎ、間隔をおいて糸でつなぎ、その上に紙を張ったもので、揚げると長い胴体を空中におよがせる。まったく奇妙キテレツなたこであった。当時でもそんなにたくさんは揚げていなかった。
 これはいくら口で説明してもわかってもらえそうもない。百聞は一見にしかずだが、いつだったか俳句の佐倉東郊さんがむかでの骨だけのものを郷土文化館に寄贈したといっていたから、郷土文化館に行けば多分見ることができるだろう。むかしの子供は手作りのたこに大空への夢をのせて遊んだ。今ではそれが模型飛行機に変わった。
 大空を仰ぎ、大空を相手にして遊ぶことは健康的でもあるし、また楽しいことでもあるが、かんじんなそれを揚げる場所がなくなってしまったのはさびしい限りである。

石井富之助著 石井敬士編集・校訂『小田原叢談』 第2章 「文学・芸能・遊び」より