牧野信一の小田原の家と牧野信一像

 牧野信一は小田原に生まれ育ち、自らの人生も常に小田原と一体化しており、最期は自殺という行為で締めくくった。どんな時も、どこへ暮らしていようとも、決して小田原を忘れてはいなかった。ここまで自分の故郷を描いた作家っているのだろうか。信一の描く小田原は実際の小田原というよりも彼独特の世界でもあり、突拍子もない不思議な表現もされていることもありますが、この根底には真実もあり、気が付くとその小田原という世界に引きずり込まれていることも多々ある。特に、小田原に住む者、小田原を知る者にとってはより一層引き込まれる世界かもしれない。
 今回触れるのは、信一が最期を遂げた小田原の家。親族で唯一、生身の信一を知っていた信一の甥であった私の父も一昨年に逝去し、本物の信一を知る者はこの世には、いなくなった。しかし、信一の住んでいた小田原の家を知る叔母が、その家を思い出して絵を描いてくれた。叔母は信一の弟である牧野英二の娘。叔母が生まれた時にはすでに信一は他界していたが、あの小田原の家で生活をしていた。私が生まれ育った小田原の家も、その家の敷地内に立っており、叔母の描いてくれた絵の中の家は幼き頃の記憶にある家だった。
 宇野浩二氏は信一を語る作品の中で、
<彼(牧野)の家は小田原の旧家であるから、家そのものも古風で、狭い入り口を入ると直ぐ広い庭に面する座敷があって、その座敷は三室あって皆庭に向かっていた。その庭も古風で、夜になると石燈籠に小さい明りがつき、その明りが池に落ちる筧の水を微かに照らしていた。※1>と、記している。
叔母の描いた絵を見てもらうとその情景が「なるほど」と、目に浮かぶのではないでしょうか。

小田原の家 (画:牧野英里子)


  <裏からはいると、庭の方からまわることになるので、すぐ、左側に、障子が明けはなしなっている三つの部屋がならんでいるのが見え、右側に池のある庭があるので、ちょっと芝居の舞台面のように見えた。※2> <その部屋から庭のほうを眺めると、庭の殆んど大部分が泉水になっていて(中略)唯、池のむこう側の庭の片隅に古風な小さな祠が立っているのと、(中略)聞こえるのは筧から落ちる水の音と、池の中の鯉どもがときどき跳ねる音だけであった。※3>
 信一の住んでいた小田原の家の庭には大きな池があり、真ん中には木の橋が架かっていた。叔母が小さい頃は姉弟でよく庭を走り回り、池に落ちる子供が続出。父英二氏は、池を半分埋めてしまったそうだ。私の記憶にある池は半分サイズになった池。それでも私自身が子供だったかったからか、ずいぶん大きな池に見えていた。小さな祠と書かれているのは、小さなお稲荷さん。あの庭の片隅にひっそりとあったのは記憶にある。
「サクラの花びら」に寄せている信一を慕ってくれていた文豪作家たちの文章の中にも
<石の門をはいって奥まったところに、黒いトタン屋根。(中略)棺自動車が動き出した。石の橋の上で目送する…。(中島健蔵)※4>
<小田原の家は、大正十年の秋、二人が婚礼の夜を迎えた思い出の場所である。(中略)やがて庭に通じる格子戸のところに幌を下した人力車がついた。(牧野英二)※5>
昔の小田原の家には、表側の入り口には石でできた門。裏の庭に通じる入り口には木の格子の裏木戸門があった。これは私の記憶にも鮮明に残っている。
 そして「ゼーロン」や「心象風景」に登場する牧野信一像。この彫像は、信一死後も牧野家に飾られており、叔母たち姉弟の絶好の遊び道具と化していたようだ。鼻をつまんだり、鼻の穴に指を入れてみたり、頭の上に座ってみたり。時には帽子掛けにもなっていた。
 現在小田原市に保管されている信一像。先日叔母を伴って会いに行ってきた。70数年ぶりの再会に叔母は興奮冷めやらず、夜中になっても寝付けなかったという。信一にとっても、親族に会えた嬉しさ。私たちと一緒に撮った彫像の写真も笑っていたような気がした。
 叔母や私の記憶にある小田原の家には未だ牧野信一が生き続けているのかもしれない。あの家はもうありませんが、彫像に会い、夢物語のような遠い存在だった信一との距離が縮んだ気がする。血の分けた親族であり、このような機会があったことで信一が近づいてきてくれた気がしていると、ますます信一にのめりこみそうだと、叔母が後日話してくれた。それは私も全く同じように感じた。
 信一のためにも私たち牧野の血を分けたもののためにも、今後も信一と小田原、私たちの結びつきを調べていこうと思う。

 ※1:宇野浩二『牧野信一の死と芸術』(牧野信一文学碑建立記念誌「サクラの花びら」P95)
 ※2・※3:宇野浩二『文壇よもやま談義 (三)牧野信一の一生』(「独断的作家論」講談社学芸文庫P378-379)
 ※4 中島健蔵『日記より』(「サクラの花びら」P52-53)
 ※5 牧野英二『サクラの花びら-牧野信一とその周辺-』(「サクラの花びら」P226-227)

MAY
  牧野信一弟・英二の孫。神奈川県小田原市出身。
結婚後各地を転々とする転勤族時代を経て、
神奈川県に戻り、現在は夫、娘、息子、猫との生活。
神奈川に戻ったのを機に牧野との交流深め、現在に至る。
子供たちの成人を機に、フリーのライター初心者として時々執筆中。