「公園へ行く道」に登場する叔母さん 

  思い切りよく刈り上げた白髪のおばあさんが、年に一度、大雄山線に乗って南足柄の我が家へやって来ました。いつも紋付の羽織姿でした。昭和25年(1950年)頃の、私が小学校一年生ぐらいの頃から10年以上続いたのではないでしょうか。
「シバヤマのおばあちゃんよ」と母が言ったとき、芝の山から見えたのだと思ったのを覚えています。
 毎年初午の頃でした。おばあさんは茶の間に座ると、幼い二人の弟と私を見て、それぞれに「幾つになった」と必ず問いました。順番に行儀良く答えると、「そう」とにっこりしました。その目の奥から私たちをじっと見ていた気がします。私たちの断片的な話にも「そう」と真っ直ぐに受け入れてくれたせいでしょうか、その声が今でも耳に残っています。 白い半襟は柔らかく、黒の羽織に包まれた丸みのある肩や背を思い出します。針仕事が身についた姿をしていました。
 この来訪者は、牧野信一の父久雄の妹スミで、柴山家に嫁ぎました。スミの姉シゲ(久雄の姉)は私たちの父菊雄の祖母です。 船に乗ってアメリカに行ったんだよ、と話してくれたことがありました。渡米は1度だけではなかったようです。 スミさんはまた、思い出話に、牧野信一の弔問に訪れた久保田万太郎がこうやっておいおい泣いていたと、うつむいて片方の手を目に近づけてその様子を再現しながら話してくれたこともありました。
 私たちが住んでいた家は、元は小田原の牧野家の屋敷にあって、牧野の子供たちが住んでいた、と父が言っていました。私は昭和18年生まれですので、それよりだいぶ前に小田原から南足柄に移築されたことになります。 牧野の子供たちとは、牧野信一の従兄弟である画家の牧野邦夫とその兄と姉たちです。数年前、すぐ上の姉(当時92歳位)牧野英子さんから、「あの家は父(牧野久雄の弟義郎)が私たちのために建てたのよ」と直接伺うことができました。
 庭の小さなお稲荷さんも共に移築されていて、鳥居や社の朱色を私たちの父は時々塗り直していました。 そういえば、スミさんは、お稲荷さんに一心に手を合わせていました。…毎年のスミさんの初午詣だったのです。日脚が延びる頃の紋羽織姿が私の胸に在ります。それ以外のスミさんを知りませんでした。
…「公園へ行く道」を読みました … 主人公の叔母さんが縫物をしながら、「そう」(旧かなで「さう」)、と言ったとき … スミさんの声だ!と思いました。瞬時に時空の遠近法に導かれてスミさんのそばまで行くことができました。 牧野信一の母親の方には姉妹がないことも確かめましたし、牧野久雄に姉は一人、妹も一人ですので間違いなくスミさんだと思います。

脇田敬子
  昭和41年横浜国立大学教育学部英語科卒業、7年間公立中学校英語教員を務める。茅ヶ崎在住、1男1女、孫3人も市内在住。

 -牧野信一と私の父(片岡菊雄)の関係について-
  「父は、岩下欽太郎とシゲ(旧姓牧野、牧野信一の伯母)の長男岩下鎗太郎(牧野信一の従兄弟)の次男です。 片岡家(牧野信一の祖母マチの実家)の養子となった碩也(旧姓牧野、牧野信一の叔父)の養子なので、戸籍上、父は信一の従兄弟になります。 」