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朗読者インタビュー

『マキノを音声で伝える快楽、聞く快楽』

蔀 英治さん

■朗読活動の取組みと演者としての姿勢(1/5)

――朗読会の活動を始められてどれくらいになりますか?

蔀英治:3年目くらい。


――どういう形式? その端緒は?
蔀:文鳥舎の朗読会も聞いていただいた駒澤大学の新井先生が10年以上の間、阿佐ヶ谷の小さな喫茶店で朗読会をされていて、当初その客として参加していたのですが、私も俳優ということで「君もやってみないか」と。それでその喫茶店で朗読したのが最初です。芝居というものは20代からやっていましたが、朗読というものはまったく念頭になく、一人でその場を構成して成立させるという、まあ芝居で言えば主役みたいなもので、面白くやらせて頂きました。

――阿佐ヶ谷での朗読会ではどういう作品を演じたのですか?
蔀:ディケンズであり辻邦生であり、シェークスピアもありました。シェークスピアは戯曲を構成して台本にするんですが。

――海外作品は翻訳でやられるのですか? そのとき、訳者の指定は?
蔀:新井先生の専門は英文学ですから、先生の訳か、先生の関係者の訳であるとか。そこでは「君は好きなものをやりたまえ」ということで何を取り上げるか非常に迷ったんですが、取り付きやすいかなとO・ヘンリーを。短篇をたくさん書いているので。いくつかの作品は子どもの頃から知っている人も多いですし、その中でも知られていない作品で面白いのがいくつかあったので、意外と知られていない作品で好評なものもありましたね。

――具体的な作品名は?
最初に読んだのは「二十年後」、(他に)「御者台から」、とか。

――O・ヘンリーやシェイクスピアを読まれて、受け手の側の反応としてはどういうところが悦ばれていましたか? 周知の作品より未見のものに触れるという体験がその場でなされていたのか?
蔀:シェークスピアの作品を全部読んだ人っていうのはあまりいないですよね。ダイジェスト的に知っている人はいるけど、そのなかでフォルスタッフを知っているとか台詞が出てくるというのは、余程好きな人か専門家でないと出てこない。ディケンズの場合も、僕なんかも原書で読むなんていう経験はないし、翻訳されているものも一部でしかないのですから、朗読会で取り上げたのはそういうものではない部分でした。ディケンズの場合は長篇が多いので、作品のある部分を取り上げたんですけども。

――取り上げたディケンズ作品の中には、9歳の男の子が7歳の女の子と駆け落ちをする、というシーンもあったそうですが、例えば子どもの台詞はどのように語るのか?
蔀:子どもの台詞は子どもになったつもりで。気持ちが子どもになるとき、子どもの声に聞こえるのかな、と。
(第一回「月あかり」リハーサルにて)

――俳優と朗読で演じることの違いは?
蔀:今までやってきた朗読では、自分で演出をやってきた--配役や演出、全部自分なんですけど。そういう作業が朗読というか。今までやって来た朗読は、全部自分がやってきて、それが俳優と違った面白さですね。

――単に文字で書かれたものを(正確にそのまま)声に出すことが「朗読」ではない?
蔀:まあ、むずかしいですね。何が正しい朗読かっていうのは(笑)僕にはわからないというか。

――以前蔀さんは、日本の小説作品では、作家が書いているとおりそのまま読まなければいけないと考えていたとおっしゃっていた。翻訳の場合、翻訳者とのずれがあるとき修正をするかも知れないが、日本近代文学の場合、それはどうなるのか。牧野信一というテクストの場合、演出はどうなっているのか。

蔀:O・ヘンリーの場合、翻訳であるために作家とのずれが生じているのではないかと感じながらやってきた。僕は朗読を一人で芝居を構成する、一人芝居のようにやってきたが--それが正しい朗読かどうかはわからないけれど--ある状況である台詞を言うとするとそれは書かれている言葉でなくても好いんじゃないか、(これはおそらく正しい朗読でないんでしょうけれど)気持ちが同じならばその場で俳優がどういう言葉を言葉を話しても好いのでないかと。

――作品として作品を読むという場合、それが演出された舞台作品になるためには、自分の演出行為のなかで読み替えることのできるところとそうでないところというのがある?

蔀:それは、そうですね。会話の部分などは読み替えても好いのかな、と。違うのかも知れないけれど。

――話法の問題とか、言語感覚とか?「こんな言い方しないだろう」とか?
蔀:そうですね。O・ヘンリーは百年前の作品で、訳している方も多いですが、「~でござる」とか、今時こんな言い方しないぞとか。時代劇として作るのであればなら好いですけど、時代設定を現代にするとそれはちょっと無理だろうというときには、ちょっと変えても好いのかなと。ある役を演じた場合、演じている側の感覚で言葉を変えても好いのかな、と。芝居の場合も、作家の書いた言葉でなくてもいいという作家もいるんですよね。どんどん変えて下さいという作家も。逆に、絶対変えるな(笑)という作家も。

――脚本があり演出家がいて、演じる人がいる。その三人がいるとき、朗読の時には演者(朗読者)の裁量が広い?
蔀:翻訳の場合では乖離があるんでそう考えるのですが、牧野の場合は随分前の作家であり、わかりにくい、非常にわかりにくい文章で…。そうではあるんですけども、作家というのは一字一句を血の出る思いで書いているということをある方に言われたんです。――それはもしかしたら翻訳家の方も一緒かも知れないんですが--牧野の文章を変えるという勇気は僕にはなかったんですよ。ただある程度、音として、朗読として、聞き手にわかりにくい言葉(同音の言葉とか)をわかるように言い換えてはいますね。

――「月あかり」の回で「音取かく」の「おんどり」を「にわとりの」と補足されてましたよね。あれは原文にはなかった。

■朗読活動の取組みと演者としての姿勢(1/5)
■第一回「月あかり」について(3/5)
■第二回「夜見の巻」~第三回「心象風景」(4/5)
■第四回「吊籠と月光と」(~第五回「ゼーロン」に向けて)(5/5)
 
 
 
 
 
 
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