讀賣新聞(3月27日) 評論 車引耕介

壁評論 牧野信一の自殺

 牧野信一の自殺を聞いて、たゞ一人の孤独な文学者の死といふより以上の、時代的な暗い衝撃を受けないものは恐らくないであらう。彼の死は、彼の自覚するとしないに拘らず、この時代に敗けたのだ。

 いまの時代は、全てのインテリがさうだが、特に文学者は、激しく自己を鞭打ち、自分で灯りをつけて足元を照すのでなければ、たうてい生きて歩んで行くことは出来ない。再深海の盲魚は、自体から発する一種の光で泳いでゐるとの事だが、いまの文学者はまさにその深海の盲魚なのだ。

 牧野信一は神経衰弱でもあつたらう、原稿がかけなかつたでもあらう、経済的にいためつけられてもゐたであらう。だが、そんなことで一人の文学者が、人一倍生命の尊さを知る一人の文学者が、おのれの生命を断てる訳のものではない。牧野はつまりその灯りをつけそこなつたのだ。

 彼は純真一徹な、孤独な文学者であつた。外からいぢめつけられゝばつけられるほど、自分をいぢめつけるといふ多少旧い型の文学者であつた。身についた空想的なロマンチツクな作風では満足せず、人生の真に触れようと焦躁しながら、つひに大きく脱皮することが出来なかつた。原稿のかけぬ悩みに攻めひしがれたのも無理もない。

 いまの時代に文学者の生きる道として、人は質素に徹せよ、と叫ぶ。だが、質素に徹することに遂に安住を見出し得なかつた牧野信一の悲劇こそ、強くわれわれの心を打ち、われわれの目を大きく見張らせるではないか。(車引耕介)