牧野氏は小田原に生れ大正八年早大文科を卒業してから同期の岡田三郎、下村千秋氏等と同人雑誌「十三人」を発行して作家として乗出し、その後新潮紙上に発表した「父を売る子」 一篇によつて認められ一躍文壇の第一線に進出して作家として確固たる地位を獲得し、そのユニークな作風を謳はれていた最近酒盗人恩涙村(ｵﾝﾙｲﾑﾗ)の二短編集(ﾐｼﾞｶﾍﾝｼｳ)を出版して好評を博したばかりなので何故に華やかな文壇生活を精算しなければならなかつたかは友人達の抱いてゐる「大きな謎」だ 牧野氏は文士生活にあり勝ちな不規則な生活の上に無理な酒の日が続いた間に数年前から神経病を病む身になつたが惰性の生活から離れることは出来ず最近は某女流作家との恋愛関係が文壇雀の噂に上つて、これが原因となつて心痛する妻せつさん（三三）と口論する様にさへなり家庭生活は冷たくなつて行つた 妻の忠告を耳にしなかつた牧野氏の病勢は次第に昂じ今月初旬妻と長男暁星中学二年生英雄君（一五）の二人を日本橋区富沢(ﾄﾐｻﾊ)町六赤川足袋店方に同居してゐる妻の実弟の許にあづけ、自らは小田原の実家に帰り更生の日々を待つたが 病気は思はしくなく、それに作家としての行詰まりに頭を悩まして極度の神経衰弱に陥り発作的に自殺を図つたものと見られてゐる、この通知を受けた妻のせつ子さんは英雄君と共に廿四日午後九時に小田原に急行した |
日本橋区富沢町六赤川足袋店方に同宿してゐる牧野氏の妻せつ子さんの実弟俊平さんは語る 「歌舞伎の鈴木さんといふ人からの通知で姉は英雄君を連れて今出掛けた所です、姉は今月の初め先生（牧野氏をかうよんでゐる）が小田原へ静養に行くと同時に英雄君の学校の関係で私の所へ来たのです、姉は何も云はぬので先生とどんな関係になつてゐたか知りませんが、私から見た先生は大酒さへせねば良い人で心から「僕の兄」として尊敬して居りましたのに飛んだことになりました、作家として病気を痛く気にしてゐた様でしたが、それが為め極度の神経衰弱に罹り、こんな結果になつたもので他に大した原因は無いのではないか思ひます、又それ以上の事は考へたくありません」 |
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牧野氏と十数年来の親交を有する中戸川吉二氏は暗然として語る 驚いてゐるところです、牧野はこの一年ほど病気の為諸所を歩いてゐて一寸も会はないのでその原因はさつぱり解らないが病気を苦にしたものぢゃないだらうか、つい此の間同時に二冊も著作を出して大いに喜んで居たし近く東京に来ると云つて寄越したのだが……とにかくこれから直ぐ小田原へ行つてみる積りだ |