小田原が生んだ文壇の奇才牧野信一氏(四一)は明治卅六年六月小田原緑一丁目三七に生まれ旧小田原藩士だつた父久雄翁の厳格な薫陶を受けて育つた、小田原中学第九回の卒業生、早大英文科を出てから下村千秋、中戸川吉二氏等と同人雑誌「十三人」などを出し原稿生活を始め文壇にメキメキ売り出したもの 節子さんとの夫婦生活を始めてから母栄(エイ)さん(六六)などと余り円満にゆかず殆ど小田原の実家には寄りつかなかつた【写真は納棺式】 |
信一氏小田中時代の同窓だつた富士箱根バス運輸課主任北村氏は語る 彼は中学時代腕白大将だつた、喇叭を吹くのが上手で学校での喇叭手だつた、だが家に帰るとおとなしい男で僕はよく彼の家に行つて机を並べ試験勉強などした事もある、作文などは他の生徒と変つたものをよく書くので評判だつた、早稲田に行つてから思想も境遇も違つて来たのであまり交際しなくなつたが、兎に角大酒を飲む様になつて母も心配して居たといふ事だつた |
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信一氏は節子夫人と別居生活する様になつてから横須賀に行つたり伊豆温泉にいつたり転々して本年二月十二、三日頃懐かしい母のもとに帰りこれも細君に死別し養子先きから戻つて居た実弟英二君(二八)と母子三人貧しいながらも楽しく暮らして居たもので母栄(エイ)さんは みんな運命です、神経衰弱が昂じてどうも原稿がうまく書けない……だが『お母さん今度東京朝日新聞に「勝盃」が大体買つて貰へる様になつたからそしたらそのお金はそつくりお母さんにあげますよ』などと何時になく親孝行の様なことを申して居りましたがほんとに不愍な事を致しました、夫婦別居などの事がありませんでしたら或ひはこんな事もなかつたらうに……と愚痴りたくなります…… と眼を赤くして語つて居た |