東京日日新聞(昭和11年3月28日) 寄稿 久保田万太郎  

牧野の自殺 (下)

 ……二十五日の午後、この原稿のはじめの一回を書いたあと、わたくしはいつものやうに勤めに出た。そして、夕方まで、いつものやうに人に逢つたり、電話をかけたり、書類に判を押したりしたあと、はじめて解放されてわたくしは銀座に出た。……銀座にはもう一ぱいあかりがついてゐた。

 わたくしは疲れてゐた。……そのくせ、わたくしは、そのまゝ家へ帰る気はしなかつたのである。……わけもなく、わたくしは、人恋しくなつてゐたのである。

「おい、出よう。……どッかへ行つて何か喰はう。」

 間もなく、そこにゐるかも知れないと教へられて行つたある喫茶店に、大江良太郎と伊藤基彦とをみ出してわたくしはいつた。

「どうしたんです?」

 ふたりはわたくしの顔をふり仰いだ。

「とにかく出よう。」

 ふたりを促してすぐわたくしは外へ出た。

 何を喰ふべきか、といふことは、どこへ行くべきかである。……しかし、イキなものだの、気取つたものだの、今夜はさうしたものは喰ひたくない。……何でもいゝ、うまいものが喰ひたい。銀座の鋪道に立つていろいろと評議した結果、わたくしたちは、あとへまたもどつて、「スコット」の、ふとく逞しい棧の入つた硝子戸を開けたのである。

 大江良太郎も、伊藤基彦も、牧野以後の、もッと若いわたくしの友だちである。そして、ふたりとも、それほど深い交渉を牧野とのあひだにもつてゐなかつたのである。だから、牧野のことについては、ふたりともわたくしのいふことにたゞ耳をかすばかりだつた。……も一つ、わたくしは、わたくしの気もちをふたりのまへにはッきりさせたかつた。……すくなくもかれの死についての、もッと深い関心をふたりにわたくしはもたせたかつた。……そのために、わたくしは、ものを書く人間の、ものを書くことが出来なくなつたら、死ぬより外に手はないともいつた。自動車の運転が出来るからといつて圓タクの運転手になつたり、パンが焼けるからといつてパンやの職人になつたりすることはいたづらに生き恥をさらすだけのものだともいつた。たとへてもしいふなら、芥川龍之介のあの場合は四段目の判官の切腹で、かれのこの今度の場合は、六段目の勘平が腹を切つたのだ、といふことが出来るだらうともいつたのである。……

 三人であけた四五本のビールにわたくしはいくぢなく酔つた。聡明なふたりは決してわたくしに逆はなかつた。……ぢきに、わたくしは、今度は逆に、二人に促されてそこを出た。

 この記述、こゝでこのまゝうち切ることが出来れば、わたくしのためにも、あとあとまでのこの記述の存在のためにも、どんなに幸ひだつたか知れないのである。しかしそれを許さない出来事がすぐそのあとに於て起つたのである。……そこを出て、ものゝなほ半丁とあるかない間で、わたくしは、小田原のかれのところへ行つて来た帰りの中戸川吉二君と宇野浩二君とにばッたりぶつかつたものなのである。

 いまゝで書いて来た二倍も三倍ものものを書きつゞけない限り、そのあとふたりの若い友だちにわかれ、中戸川君と宇野君と改めて三人になつていろいろと話合つたことをつくすことは出来ないのである。中戸川君、宇野君、ともに「父を売る子」以前からの、かれとは古い……といふことはまたまたなく深い附合をもつた人たちである。……心ゆくまで、すなはち、わたくしはかれについてのおもひでをこの二人のまへにほしいまゝにすることが出来たのである。 (三月二十七日)

《補記》

昭和11年3月26日~28日『東京日日新聞』。本文は初出により、全集版(『久保田万太郎全集』昭和43年)とは細かな相違がある。