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牧野信一の死は私の心を可なり深く揺つた。これまで親しい友で死んだのは、芥川と直木であるが、彼等の場合より、牧野の死の方が私にはこたへた。 芥川の死の場合も、死の原因を数へると十以上あるだらうがこの牧野の死因についても芥川と幾らか似たところはあるが、矢張十以上あげることが出来よう、唯々この二人の死の違ひは、芥川はちやんと用意をして死んだが、牧野は不意に死んだことである。 いま世間でいろいろと死の原因が取沙汰されてゐるやうであるがそれ等はただ表面に現れた原因のやうなものを数へられてゐるだけのやうである。いひ換へるとみな余りに常識的で牧野に就て深く理解したものは殆んどないやうに思ふ。尤も、私にしても、今のところ、はつきりいへないし、幾らか分つてはゐても、まだいふべき時ではない。 牧野が生活に困つてゐたのは確らしい。が、決してそれをいはなかつた。併し、彼は小田原の家に居れば生活に困るやうなことはなかつた。が彼は小田原の家に住むことは好まなかつた。その自分の家を好まなかつた點ではまた生活に困つてゐてもそれをいはなかつた點では牧野と芥川と共通したところがあつた。 彼の家庭問題といつても、彼の場合は、家庭があるやうで又ないやうな生活であつたから、普通の作家に起る家庭問題とは、かなり距きが違ふ。が、これに触れることは、私には今のところ出来ない。 ……(×)…… 彼が死ぬ前に一人で小田原に住んでゐた時細君や子供を慕つたことは事実らしいが、これも別に深い理由があるのではなく(あるひはあるが)唯々寂しかつたからである。 孤独といへば、彼には親しい友が少なかつた。といふより、彼は親しい友を作らなかつた。が、この理由も早急に述べられないから省く。唯々、私事の相談相手には中学からの友達の鈴木十郎、文学の友達としては久保田万太郎と私ぐらゐのものであつた。昔の同人雑誌の友達、下村千秋、岡田三郎、浅原六郎などとは生前交際してゐなかつた。これは、彼が生来の潔癖性で純情的であつた為といふことになるだらうが、この方の事も私は立入つた自分の感想を今は述べたくない。 ……(×)…… 神経衰弱ではあつたらしいが、それも芥川のやうに一年も二年も続いたといふやうなものでなく、せいぜい二三ヶ月ぐらゐのものであつたと思ふから、癒すことのできる程度のものであつたらう。 牧野ばかりでなく、作家には夜よく眠れないといふやうな人は随分多いのであるから、彼の不眠症ぐらゐは死の因にはならない。尤も、不眠症ばかりでなく、肉体は衰弱してゐたといふ事を近親の人々から聞いたが、それも不眠症から来たものであらう。唯彼が住んでゐた小田原の家は余りに暗過ぎた。常識的なことをいふと、死など考へたくなりさうな神経衰弱には最も不適当な家であつた。 ……(×)…… 芸術的行詰まりだといふ説もあるが、それは私も幾らか首肯はするが、彼の芸術は、今行詰つてゐても、半年も持ちこたへたら道が開けて来る芸術であつたと私は考へる。しかし、又かういふ事もいへる。牧野は自分の文学が一般に認められることの少ないのを心の底で歎いてゐたかも知れない。私からいはせると、牧野の芸術のよき理解者が余り少ないのを残念に思ふのである。片岡の「花嫁学校」や武田の「銀座八丁」などは、彼等の覘ふところを書いてゐてそれが今の若人の一部に於て囃されるので、彼等は今のところ幾らか時めいてゐる作家のやうであるが、私も彼等の文学を彼等の文学として認めるが、「今の若さ」などを考慮に入れないで考へると、否、芸術品として考へると、私は客観的に云つて、牧野の文学を高く見るのである。これを通俗的に言ひ換へると、片岡や武田の文学は代用品が出来るかもしれないが、牧野の文学は、代用品どころか、牧野なき後は、最早や現れないと思はれる、独特なものである。 彼の作品を人々は一口にギリシヤ物といふが、ギリシヤ物といふやうなものは数へる程しかない。彼の作品を真に読んでゐない人には「ゼーロン」とか「村のストア派」などといふ題だけですぐギリシヤ物として片附けてしまふので名作「ゼーロン」でも「村のストア派」でも、空想は交つてゐるが、彼の実生活に裏づけられてゐるところに、彼の文学の独特な美があるのである。最近――去年の十月中頃彼に会つた時、彼は、これからは、丸きり空想的なものと、現実的なものといふ風に、二つの形の小説を書いてみたい、といふ意味のことを、私に洩らした。 ……(×)…… 私は考へる――。牧野が何とかして、せめてもう半年もちこたへてくれたら、彼が私にいつたやうな空想的なものと現実的なものの二つの形の小説が書けるやうになつたであらう、と私は考へるのである。それは、彼の今までの創作を悉く読み返したら、この二つの形の小説を彼が書けるに違ひないと思はれるからである。 かう考へて、通俗的な言葉でいふと、彼が早まつて死んだやうな気がして私は残念でならぬのである。(口述筆記校訂) |