讀賣新聞(昭和11年3月25日 記事 東京版  

苦悶の作家 “孤独の人生”の破局 夫人と別れ小田原の母堂宅で 「櫻の花瓣」未完成のまゝ

牧野信一氏縊死

夫人と別れ小田原の母堂宅で 「櫻の花瓣」未完成のまゝ

 純文学の中堅作家として深刻な心理解剖に人生派的作風で知られてゐる作家牧野信一氏(四一)は、廿四日午後六時小田原町新玉二ノ四〇〇の自宅で自殺した。同氏はひたむきな作家としての精進から極度の神経衰弱におちいり、最近は殊に不眠の夜がつゞいて肉体的にも蝕まれてゐた。夫人と別居してからは、好きな酒も断つて孤独な生活をし、知友の中には同氏が旅行してゐたと信じてゐた人さへあつた程である、牧野氏自殺と聞き日ごろ同氏の文学的苦悶を知る文壇人は芥川龍之介氏自殺以来の大きな衝撃をうけて氏の作家としてのつきつめた苦悶及びその精神的破綻を痛んでゐる、氏の枕辺には駆けつけた親友中戸川吉二氏、せつ子夫人、令弟英二氏らが坐してゐるだけで、最後まで淋しい“苦悶の作家”の死であつた【写真は牧野信一氏と筆跡】

【小田原電話】神経衰弱に罹つて人生苦悶におちいつて夫人せつ子(三四)さんとも別れた牧野氏は去る二月十五日母堂栄(六四)さんを頼つて長男英雄君(一五)とゝもに小田原の実家に静養中だつた、氏の神経衰弱は

 最近ことに甚だしく不眠症に悩まされて「原稿が書けない、死ぬ」と口走つて友人にも会はず極度の厭人主義的な生活の裡に苦しみつゞけ、その死に直面したひたむきな悩みに、家人も自殺のおそれを感じて警戒をしてゐたところであつた、廿四日のひるすぎ母堂が英雄君をつれて海岸へ散歩に出かけた隙をみて牧野君は奥四畳半の間の梁に英雄君の兵児帯をかけて縊死を遂げてゐるのを女中が発見した、遺書は見当らず書斎の机上には執筆中の東京朝日新聞の新聞小説「櫻の花瓣」が未完成のまゝ置かれてあつた

 氏は小田原藩士の父をもつ小田原の生れ、大正八年早大英文科卒業で同期の岡田三郎、下村千秋氏らと同人雑誌「十三人」を発行、処女作「爪」を発表して島崎藤村氏に認められて一躍文壇に出、飄逸なユーモアを含む作風に、最近は人生派としてのみがきをかけて短篇「思涙村」を去る二月、「酒盗人」を十日ほどまへに出版、好評を博したばかりである

 夫人せつ子さんは甥貞(四つ)君と一緒に日本橋区富澤町の実家に帰つてをりモダン日本社に勤める同氏令弟英二(二八)氏および急をきいた文壇人、知友たちは同夜小田原へ急行した

讀賣新聞(昭和11年3月25日東京版 談話 母牧野えい 妻牧野せつ  

死ぬんだと 口癖に 母堂の嘆き

 【小田原電話】自殺した牧野氏はいたいたしいまでに憔悴してゐた久しくあたらないその粗髭の間にも死の最後まで作家としてつゞけてきた苦悶のさまが見うけられ、枕頭につめきる人々はたゞ暗然たるのみであつた、母堂栄さんは涙のうちに語る

「もうペンがとれなくなつたから俺は死ぬんだと口癖のやうにいつてゐましたので、そんなことをいはずに勉強して立派なものを書くやうに希望を持たなくてはいけませんよと常日ごろ励ましてゐたのでしたのに全くとんだとになつてしまひました」

養生のための 別居でした 夫人は語る

 【小田原電話】夫人せつ子さんは今暁一時卅四分小田原駅着で夫の死床に侍つた

「死の原因は全く神表衰弱によるものとしか思はれません、別居生活は夫の養生のためで、最後のみとりができなかつたことが残念です」

讀賣新聞(昭和11年3月25日東京版 記事/談話 浅原六郎

文学建直しに呻吟 好きな酒もやめてゐた牧野氏 最近の二著が墓標に

 制作半ばに筆を捨てゝ死に走つた牧野信一氏は苛酷なまで自己をみつめつゞけてきた苦悶の作家であつた処女作「爪」出世作「蝉」を発表して華やかに文壇に迎へられた十余年前の自信は年とゝもに失はれ「悪の同意語」「父を売る子」などの傑作を発表したころは文壇から浴びる賞賛の声をさへうつろに聞いて孤独を楽しむやうになつてゐた

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若くして結婚した彼はまた作家生活と家庭生活との相剋に永い間悩まされつゞけてゐた、書きあげた作品をまづ夫人に読み聞かせて夫人が納得してはじめて発表するほどの愛妻家であつた反面に、中戸川吉二氏や死んだ酒仙葛西善蔵氏らと痛飲酒興いたれば幾夜の徹夜も平気で飄然と家を出たまゝ十日も廿日もかへらないといつた放浪癖の持ち主でもあつた、曉星中学に通ふ一人息子の英雄君(一五)の将来についても父として激しい責任を感じ肉体的な事情から事実上の別居を余儀なくされてゐたせつ子夫人に愛児をまかせておくことも出来ないほどであつた

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最近は制作の筆も進まず神経衰弱は募るばかりそのうへ悪性の痔疾を患つて「死んでもやめぬ」といつてゐた酒も断たなければならなくなつていよいよ生きる力を喪失していつたものであらう、作家的良心の呵責と肉体的苦痛と、二重の痛苦に堪へかねたといふのが死にいたる彼の悲惨な「心象風景」であらう、彼が最近その友浅原六朗氏に病中から送つた次の書簡がその心境をよく物語つてゐる

「僕は終ひに全くの孤独となり一先づ先月からこつちの陋屋に呻吟してゐる、今、僕としての生活の大きな破局に出会つたわけだ、筆では書けぬから、起き直り次第出京いろいろはなすつもりでゐる、そして東京のどこかにひとりで下宿でもして、新しい生活に入らなければならないのだ―之らの寂涼とした困難とたたかひながら、文学を立て直さなければならなくなつた、今日うちには出られないかも知れないが出たら知らせる、旧友に求めようとする精神的慰撫の欲求がひたすらだ」

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去る十八日上梓されたばかりの著作集「酒盗人」「鬼涙村」の二著を墓標として自らの命を絶つた彼のうへに彼を知るほどの者は深刻な吐息とゝもに同情の涙をそゝいでゐる【カツトは最近の書翰】

難解な探求が 破壊への道 浅原六朗氏語る

 早稲田時代から彼とはズッと一緒だつたし、僕らが文学的な発足をした「十三人」の同人として雑誌をやつてゐたが、そのころから彼はもう文壇的に認められてゐた、その後、少し仲違ひして久しく逢はなかつたが、一昨年、八年振りでまた逢ふやうになつて僕は彼の素晴らしく生成してゐることに驚き、彼もまた僕の生長を悦んでくれた、それからは旧に勝る非常な親しい間柄となつて、文学や人生を語り合つてゐた、彼はいつも人生に触れてゐない文学は、いかに器用に書いてあつても、器用さだけでは文学の価値はない、ほんたうの文学といふものは、人生のより真相に触れることであるといつてゐた、それはまた人生の悲劇に触れて行くものである、それに彼は永い文壇生活にもかゝはらず、いはゆる文壇ずれといふところは少しもないし作家としても、きはめて純粋で生一本であつた、最近に「僕としての生活の大きな破局に出逢つて呻吟してゐる」といふことを手紙でいつてよこしたが、その苦しみの内容を聴かぬうちに彼は卒然逝つてしまつた、経済的にも苦しいことは話してゐたが、しかし彼の死の原因は潔癖な探求から人生的に行詰つたものと思はれる、酒も飲んだが酒を飲むことは最近に出来るだけ避けてゐて、酒を飲むことは気持のごまかしであつて、さういふことは卑怯だといつてゐたが、結局、酒を飲んでゐた、やはり酒によつても、ごまかし切れずに死を選んだんではないかとおもふ、彼の最近の著書の題目である「鬼涙村」「酒盗人」といふやうなものをみるも、少し奇異な感じをうけるし、ひどい神経衰弱にも罹つてゐたが、つまるところ彼は人生に對する考へ方、感じ方が非常に真面目で真剣であり過ぎたことが、破壊の道を辿らしたのではないかとおもはれる