死んだ牧野氏の本籍は小田原町緑一の三七で父の久雄氏は金融業で相当の富を為したが大正十三年三月死亡し信一氏が戸主になるや文士にあり勝ちな無鉄砲な日常生活から次第に傾き第一小学校に長く教鞭を取つてゐた母のエイさんが一切を切り盛りし、夫人せつ子さんとの間柄もうまく行かず独り子の英雄君を残して別居してゐる處へ信一氏の令弟英二氏が養家先の小田原町緑(リョク)田海老名定徳氏方で夫人のミチ子さんを失ひ一子定雄君を連れて帰つてくる等複雑した家庭の事情もからみ戸主の信一氏の精神的苦痛は深刻となりそれを好きな酒にまぎらすうち遂に強度の神経衰弱に襲はれるに至つたものと云はれてゐる 氏は第九回小田中卒業生で在校中は剣道の選手ラッパの名手で知られ酒は前後不覚にならなければ気がすまなかつた絶筆となつた「櫻の花瓣」は十八回分だけ書き上げてあつたが、そのテーマは、酒好きのため折角の恋人にも捨てられた男が窓辺に散る櫻花を眺めながら絶望的な気持ちに引きずられて行く心理を書いたものであだかもこれが氏の遺書の代用ともなる自己の心境を、遺憾なく表現したものである |
牧野氏の納棺式は廿五日午後三時半行はれ霊前には遺著「天狗洞食客記」「泉岳寺付近」「酒盗人」「淡雪」「操り船で径く家」、「病状」「好色夢」「熱海線私語」、「夜見の巻」「心象風景」が供へられ せつ子夫人令息英雄君始め近親者に友人の中戸川吉二氏ら十餘人がしめやかに第二夜の御通夜をまもり故人の鋭利な直観力や奔放な精神に就ての思ひ出話が心から手向られた【写真はその霊前-右長男英雄君夫人母堂】 |
![]() |
文運拙く咲く花も待たで自ら死を選んで四十一歳を最後に散つた牧野氏の霊前には廿四日夜半東京から駈けつけた夫人せつ子さん(三四)始め母堂栄子さん(六四)長男英雄君(一五)令弟英二氏(二八)義妹ちえ子さん(三〇)友人中戸川吉二氏鈴木十郎氏(歌舞伎座重役)の人々が涙ながらの御通夜をなした一人息子の英雄君が父の死を夢の如くいたいけな姿で額づいて弔問者の涙を絞つた告別式は廿六日午後一時から清光寺住職蔦野恵盛氏導師で自宅で行ふ黒の喪服(洋装)に包まれた夫人は語る 私達は夫婦間の確執から別居してゐたと云ふのではなく信一の病気恢復のために別れてゐたので婦人関係など絶対ありません お母さんの栄子さんは語る 「この頃、どうも書けなくなつたからもういつそ死んぢまふんだと云ふやうなことを口走りますのでそれより早く病気を治し立派なものを書くやう希望を持たなくてはいけませんよ、と励ましてをりましたのにほんたうに悲しい事になつてしまひました」 |
牧野氏の異常を女中の板垣静枝さん(二九)が発見したのは廿四日午後七時頃で驚いて近寄るとまだ身体にぬくみがあつたから人工呼吸を施してみたが絶望だつた、まもなく新玉四の高橋医師が駈けつけたが心臓は既に一時間も前に止つてゐたので如何とも施す術とてなかつた、発見した静枝さんは語る 床に臥つてゐる筈の主人が見えませんので、若しやと思つて探しますと納戸部屋に変つた姿をみせてゐたのでした、殆ど夢中で御手当したのでしたが-やつぱり駄目でした 女渡邊きく(二二)が [註:以下七行分のコメントが欠落] |